政治経済学・経済史会春季総合大会
「社会的包摂の系譜と自由観念の転換
―英仏の『市民社会』と『シティズンシップ』―」
(2008年6月28日)
報告要旨



  本報告では、「自由と公共性」をめぐる問題史の中で、イギリス、フランスの19世紀末から20世紀初頭における思想の位置づけを探るために、「市民社会」と「市民権(citizenship. citoyenneté)という概念の変遷に着目する。1. 市民社会の古典形式の具体化(18世紀末〜19世紀前半)、2. 市民社会の古典形式からの変形(19世紀後半〜20世紀初頭)、3. 社会的市民権の再定義(1980年代〜今日)、という三つの時期に分け、それぞれの時期における「市民社会」と「市民権」の理解をたどることで、今日の問題状況の一端を指摘することにしたい。

 なお以下の内容は、あくまで報告者の視点からみた仮説的な問題の整理にとどまる。


1 市民社会の古典的形式

 第一の時期は、ハバーマスの言う「市民的公共性(bürgerliche Öffentlichkeit)」――私的自治に支えられた個人の討議と合意によって正当化される公共的秩序の理念――が、英仏において法的に宣言され、具体的形式を与えられる時期である。

 (1)フランスでは、大革命期の1789年人権宣言から1791年憲法形成期において、こうした理念の法的宣言がなされた。市民的自由(言論・思想の自由、集会の自由、職業の自由)を有する個人の契約による公権力の樹立という擬制が語られる。ただし革命中期以降、このような「市民社会」に入らない――私的自律を持たない――膨大な貧困層の存在が意識され、国家による「人民」の自律の一元的保障(生存権、公的扶助の権利)が模索される。こうした措置が現実には機能しえないことが明らかとなることで、古典的「市民社会」理念からの離反が始まる。

 (2)イギリスでは、国家から自律した「市民社会(civil society)」の理念は18世紀後半のスコットランド啓蒙哲学者によって語られた。それは18世紀末の経済的自由を規定する諸立法によって具体化される。1834年の救貧法改正は、こうした古典的「市民社会」理念を具体化する立法の一つとして位置づけられる。

 この改正論での最も重要な論点となったのは、生活資料を自力で得られない者の困窮(indigence)状態と、労働能力のある者の貧困状態(poverty)との峻別(あるいはnon able-bodiedとable-bodiedの峻別)であり、後者への救済の禁止であった(The Poor Law Report of 1834)。すなわちこの改正は、国家と市民社会の境界を明確化することで、労働によって自活する個人からなる「市民社会」の理念を具体化するものであったと位置づけられる。


2 市民社会変形の二類型 ― 市民権から社会的市民権へ

 第二の時期は、「市民社会」の古典的理念が変形を蒙る時期である。ただしその過程は、フランスとイギリスで異なっている。この経路の違いが、両国の19世紀「自由主義」理解の相違、「社会(的市民)権」の相違、ひいては福祉国家の構造の相違へとつながっていくと考えられる。

 (1)フランスでは、1830年代の「大衆的貧困(paupérisme)」の登場によって、大革命期の秩序像の決定的な変形が開始される(cf. 田中拓道『貧困と共和国―社会的連帯の誕生』人文書院、2006年)。「個人的貧困」観から「社会的貧困」観への転換が生じ、産業の無規制な発展が「大衆的貧困」の一要因とみなされる(イギリス政治経済学批判)。さらに、フランス革命期のように、国家による一元的な生存権の保障はその解決に役立たないとされる。

 この時期以降、個人を取り巻く「社会的なもの(le social)」(家族、上層階級のパターナリズム、共済組合、アソシアシオンなどの集積)の領域を「組織化」することが、共通の思想課題となる。「社会的なもの」は、古典的「市民社会」理念の延長上にではなく、その挫折によって「発見」された。個人は、自然権を有する存在ではなく、「社会」の中にあらかじめ埋め込まれ、一定の義務を引き受けることで「自律」を獲得する存在とみなされる。

 世紀転換期の「社会的連帯」の思想は、19世紀をつうじた「社会的なもの」をめぐる思想競合の一帰結であった。そこでは個人と社会が互いに一定の義務を担い合うとされる。両者の関係は「準契約」という概念で説明される。フランスでの「社会的市民権」は、このような個人―社会観に基づいて導出される。それは戦後福祉国家における、職業的属性と強く結びついた社会保険という制度のあり方にも反映されている。

 (2)イギリスでは、1880年代の社会調査(ブース、ラウントリーなど)を経て、貧困が「発見」される。T. グリーンなどによって導入されるドイツ観念論の影響を背景に(J. Harris)、「社会的貧困」観への転換が起こり、集合的な取り組みが要請されていく。

 ただし、この時期のイギリス社会思想が、旧来の国家―市民社会の線引きを廃棄し、まったく異なる個人―社会観への転換をもたらした、とみなすことはできないように思われる。1909年救貧法委員会報告で問われたのは、労働能力のある貧民と無能力貧民の峻別であり、それぞれにどう異なる(効率的)処遇を行うか、ということであった。言い換えれば、そこで問われたのは国家―市民社会の新たな線引きであった。COSの代弁者ボザンケのみならず、ホブソン、ホブハウスなどの新自由主義者、ウェッブ夫妻などは、「労働市場において自活する個人」から成る秩序を前提とし、そこから脱落する個人の「自律」を保障するための集合的取り組みを要請した。その目的は、労働能力のある個人の「自律」であり、彼ら・彼女らを国家から自律した「市民社会」へと再挿入することであった。

 戦後福祉国家の基礎となるベヴァリッジ・プランには、多様な思想が混在している。とはいえ、「ナショナル・ミニマム」の普遍的保障という社会権の理念が、労働によって自活する個人からなる「自由社会」の保持、という目的との組み合わせで提起されていることに変わりはない。


3 社会的市民権の再定義

 第三の時期は、「市民社会」の変形によって導かれた「社会的市民権」(それに基づく福祉国家)の理念に内在する矛盾点が顕在化していく1980年代以降である。この時期には、英仏それぞれにおいて「社会的排除」と「包摂」が政策課題として浮上するが、その構図は両国で異なっている。この相違は、それぞれの国において「自由」の将来像を論ずる際の、問題の相違にもつながっているであろう。

 (1)戦後フランス福祉国家は、一定の就労義務を果たす個人に(十全な)社会権を約束するという相互義務の観念の上に成立した。1970年代後半から、こうした義務を引き受けられない個人の問題が「排除(exclusion)」として浮上する。

 フランスでの「排除」論は、労働市場からの脱落というよりも、個人を「社会化」する紐帯の脆弱化の帰結であり、従来の秩序の正統性にかかわる深刻な問題として認識される。「参入(insertion)」政策は、個人を「社会化」するための多様な働きかけとして、一部では個人と社会の相互義務にたいする問い直しを含みながら、模索されている。そこで問われているのは、個人を自律した契約主体へと再生させるために、どのような働きかけが必要なのか、という点である。

 (2)イギリスで社会権の問い直しがはじまるのは、1970年代末からである。貧困層への寛大な福祉を批判するサッチャーは、「救済に値いする(deserving)貧民」と「値いしない(undeserving)貧民」というヴィクトリア時代以来の区分を持ち出し、国家と市民(市場)社会の役割区分の引きなおしを要求した。ブレア労働党は、undeservingな貧民にたいする救済への批判を引き継ぎ、「アクティヴな市民社会」を構築するために、労働能力のある貧困層への就労支援を打ち出している。これらの議論で問われているundeserving poorへの処遇――それをつうじた国家と市民社会の役割区分の再設定――は、イギリス社会思想史における「自由」をめぐる議論の根本的変化というよりも、むしろその一貫性を示しているように思われる。